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2005年6月10日 (金曜日)

東京都道233号東大泉田無線

東京都道233号東大泉田無線(保谷新道)は田無から関越自動車道、外環自動車道方面へ抜ける際、よく利用するが、不思議に思うことがある。田無一丁目交差点から中町交差点までの2キロメートル以上の区間が直線である。ずっと先まで見通せる、本当の直線であるが、なぜこれほどまでに直線なのだろうか?曲がりくねった道路が多い西東京市周辺において、2キロメートルの直線は際立っているだろう。

直線の道路といえば、思い当たるのが、井の頭通り。中央通り交差点から浜田山駅入口交差点までがほぼ直線である。この道路はかつて水道道路と呼ばれていたが、水道道路と呼ばれる道路は一般的に直線が多いようである。保谷新道はどうだろうか?

もうひとつの疑問は保谷新道が新道であれば、旧道はどこにあるのだろうか?地図を見たがそれらしい道路は見当たらない。

さて、この保谷新道であるが、以前「第2次交差点すいすいプラン」でコメントしたように、西東京市内では唯一「第2次交差点すいすいプラン」のリストに挙がっている道路である。(実施箇所は2箇所) 具体的な実施時期については明確になっていないが、交通事情改善のため、是非とも早く実現してもらいたい。

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コメント

オナー様 今晩ワ!!
いつも楽しく、田無についての考察を拝見しています。
さて、今日の話題の“水道道路”ですが、これは都民の為の大動脈(飲み水)に成っています。  多摩湖、狭山湖系からサイクリング道路と境浄水場をへて、井の頭通りの地下を和田堀給水所まで直径2m程度の水道管が敷設されいます。 工事の経済性から直線になるのでしょね。
一方、西東京市にはもう一本の“水道道路”があります。 村山浄水場~淀橋浄水(たぶん)まで送水している・・・そう 新青梅街道です。 ご存知でした。?

投稿: 芝久保のパパ | 2005年6月10日 (金曜日) 20時24分

芝久保のパパさん、こんばんは。
井の頭通りは三鷹に住んでいたときから、水道道路と言っていてこちらは馴染みがありますが、新青梅街道も水道道路であったことは最近知りました。
改めて地図を見ると、他にも直線の道路はありますね。保谷新道ばかり気になっていましたが・・・。

投稿: tanashi | 2005年6月10日 (金曜日) 22時28分

 tanashiさん始めまして。田無歴21代目の400石組と申します。
 さっそくですが新道というと田無には他に谷戸新道と境新道(武蔵境通り)があります。この3つの新道はいずれも田無と駅とを結ぶためにできました。最初は境新道。宿場の中心(現在の田無町交差点)から甲武鉄道(JR中央線)武蔵境駅(明治22年開業)へと切り開いたものです。
 次は本題の保谷新道。武蔵野鉄道(西武池袋線)保谷駅(大正4年開業)と田無を結ぶためにできました。保谷駅前には現在の都道がもともと大泉から保谷厚生病院の南の横山道(鎌倉街道)との辻までありました。保谷駅のできた下保谷から田無へはその駅前の道から保谷高校方向へ進み横山道から宝晃院の先を左折して深大寺街道(榎通り)から現在の西武柳沢駅方向へと進むか、その先を左折してこれまた横山道という別の道で現在の北原交番付近を回って遠まわりしなければなりませんでした。そこで田無の発展のために当時の柳沢宿(=田無)の入口であった現在の田無町1丁目交差点へまっすぐ作ったのです。
ですから保谷新道に対しての直接の旧道はなく、単に新しい道という意味なんですね。   最後に谷戸新道は田無町駅(ひばりが丘駅大正11年開業)が請願の末やっと開業したので、田無と結ぶためもともとあった清戸道をベースに谷戸新道交差点(今は歩道で渡れなくなってしまったところ)までの間を比較的直線化&拡幅して切り開いたもの(青梅街道まで至らずにそこで終わってしまうのは総持寺の脇の道=穀物屋通りがあったため)。
 このように鉄道がない田無は新道を作って利便性を確保しようと勤めてきましたが、念願の田無駅ができたのは昭和2年になってからでした。。
 そしてついでに谷戸新道と境新道を結ぶのが中央通りです。これはひばりが丘から来たバスがいったん所沢街道へ左折しさらに田無町1丁目交差点から青梅街道へ右折するという大回りを解消するため、後に直接結ぶために作られたものです。
 

投稿: 400石組 | 2005年7月 9日 (土曜日) 12時30分

400石組さん、こんにちは。(何とお読みするのでしょう?)

詳しい解説ありがとうございます。いただいたコメントを現在の地図とつき合わせてみましたが、十分に追いきれませんでした。そのうち図書館等で古い地図でも見つけて、確認してみたいと思います。

昭和初期までの当時の状況はよくわかりませんが、今これらの3つの新道がないことを想像すると、とても不便ですね。
保谷新道、保谷駅周辺のほうは駅前開発とあわせて道路が整備されるようですが、田無駅側は歩道が十分に整備されていないため、まだしばらくは快適な道路とはいえませんね。

投稿: tanashi | 2005年7月10日 (日曜日) 10時16分

管理人様こんばんは。
早速のレスありがとうございます。読み方は”よんひゃっこくぐみ”ということでお願いします。その昔田無は400石組と800石組それと田無新田に分かれていたというところから頂きました。
 道の名前は現在名前がないものは旧称のみを用いざるを得なかったのでわかりにくかったかもしれません。西東京市発行の文化財マップをご覧になっていただければ、西浦北向地蔵尊を経て北原交番へ至る横山道の別ルート以外はご理解いただけると思います。
 保谷新道に関しては管理人様のおっしゃるとおりで保谷小前交差点以北は徐々に改良されてきていますが、こと田無側は歩道の整備が不十分なままですね。消防署の田無出張所跡地などできるところから少しずつでも改良していただきたいですよね。

投稿: 400石組 | 2005年7月12日 (火曜日) 01時48分

400石組さん、こんばんは。
西東京市内および周辺道路はまだまだ整備が必要ですね。歩行者が安心して歩ける道路が少ないだけでなく、狭くて入り組んでいて緊急車両も入っていくのが困難なところが多々あるのではないでしょうか。
都市計画上は多くの計画道路がありますが、これらは具体的なスケジュールを示されないので、一体いつ整備されるかわかりません。
土地を収用するのに時間とお金がかかるので、なかなか進みませんが、出来るところから進めていただきたいものです。

投稿: tanashi | 2005年7月13日 (水曜日) 01時24分

みなさま。こんにちは。
谷戸に住んで、周辺の古道を探索しています。
暇さえあれば地図を眺めているのですが、ふとした疑問。
旧田無市(田無町、北原町)と旧保谷市(保谷町、泉町)の境界線は、特に道路があるわけでもないのに、どうして境界になっているのでしょうか。昔の道路の痕ですか?
どなたかご存知の方、教えてください。

投稿: 谷戸の閑人 | 2006年5月19日 (金曜日) 17時43分

谷戸の閑人さん、こんばんは。
改めて、現在の市境を見てみたところ、やはり必ずしも道路が境界となっているわけではないようですね。境界はどのように定めているのでしょうか。私も答えを持ち合わせていないので、詳しい方のコメントを待ちたいと思います。

投稿: tanashi | 2006年5月19日 (金曜日) 23時05分

はじめまして。泉町の「横山道」近くに住む古道趣味“超”初心者のやっとんと申します。
谷戸の閑人さんのコメントにある旧市境は、「深大寺道」の跡だという説があるようですよ。
深大寺道とは、室町時代から戦国時代にかけて上杉氏が小田原北条氏と対峙していた時に、「ベースキャンプ」であった川越本城から滝の城(所沢市柳瀬川沿い)を経て「前線基地」である深大寺城までをつないでいた軍道です。
地図を見直すと、北側はひばりヶ丘駅北側から野火止用水近くまで東京都(東久留米市)埼玉県(新座市)境が滝の城に続く線上にあり、南側は青梅街道から武蔵野大学にかけて旧保谷・田無市境が、玉川上水から三鷹市塚まで武蔵野・三鷹市境が、深大寺に続く線上にあります。これらの市境・県境の道は深大寺道のなごりであると考えられているようです。
そこで問題の、富士街道からひばりヶ丘中学校付近までの旧市境ですが、北と南の市境・県境の線をつなぐようにまっすぐ伸びているので、たしかに失われた深大寺道の痕跡だと考えたくなりますね。ただ、確証はないようです。旧市境決定の経緯などを示す史料はないのでしょうかねぇ。

投稿: やっとん | 2006年5月28日 (日曜日) 11時39分

やっとんさん、こんばんは。
古道散策、流行っているのでしょうか?昔の面影が残されているのであれば、私も歩いてみたいと思います。
さて、柳沢から武蔵野大学の方へ抜けていく通りが深大寺街道といったと思いますが、その名残でしょうか?

投稿: tanashi | 2006年5月30日 (火曜日) 21時43分

tanashiさん、レスありがとうございます。
西東京市内では深大寺街道、武蔵野市に入ると大師通りと呼ばれる通りが、旧深大寺道です。中央線以南は、武蔵境通り~野崎八幡~北ノ台小信号~三鷹通りと続きます。でも、旧道の風情が残るのは、野崎八幡から北ノ台小信号の間くらいです。
ところで、市境の話のその後ですが、田無市立中央図書館編『田無のむかし話その3』の大正初期の再現地図に、旧市境が並木道として描かれているのを見つけました。あそこに道があったのは間違いなさそうです。400石組さんは何かご存知ではないでしょうか。

投稿: やっとん | 2006年5月31日 (水曜日) 23時46分

tanashiさん、やっとんさん。
レスありがとうございます。

旧市境が並木道であったとは驚きです。たぶん、畑の境目をあきらかにするために樹木が植えてあったのでしょうね。
それが深大寺道だとすると、歴史ロマンが広がりますね。

谷戸のデニーズの横にあるバス停前に小さな祠があって、そこの庚申塔には「右 えどみち 左 ふちうみち 北 きよとみち」と書いてあります。たぶん昔はもっと別の場所にあったのでしょうけど、それがどこか気になって・・・。
田無近辺の庚申塔を調べてつないで行くと、旧道が見えてくるのではないかと考えている次第ですが、西東京市の「文化財」としての調査はされていないようですね。

南北に深大寺通、東西に横山道、その交点に谷戸の尉殿大権現(今の田無神社への遷宮前で、ひばり中あたりらしいです)と考えると、青梅街道以前の谷戸は、それなりに交通の要所だったと考えられますね。

投稿: 谷戸の閑人 | 2006年6月 2日 (金曜日) 15時24分

田無あたりの道路についてのご解説、ご考察、拝読しまして、お詳しい方がおられるようなので、お伺いします。西武柳沢という駅(私もたまには利用します)の名前ですが、西武と冠しているところをみると、別な柳沢駅というのがかつてあったのでしょうか。あのあたりは、西武線以外走っていないので、あえて西武と冠する理由がわからずにいて、もやもやしているもんですから。

投稿: 青梅街道新参者 | 2011年9月 2日 (金曜日) 13時00分

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