全国で最初の町
田無に関する記述を読んでいたところ、田無が町制をしいたのが明治12年4月だそうだ。これは全国で最初の町とのこと。ちなみにこのとき多摩郡で町制をしいたのは、八王子、青梅、五日市、府中、調布、田無の6町である。
今でこそ発展の著しい、武蔵野や三鷹は、当時はまだまだ片田舎だったようだ。田無は青梅街道、五日市街道、所沢街道が交差する重要な宿場町で、北多摩では大変賑やかな町だったことだろう。その後甲武鉄道(今のJR中央線)が開通すると、中央線沿線に中心が移っていき、田無は取り残されることとなる。
当時の田無の賑わいとはどのようなものだろうか?
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コメント
田無市の小学校を卒業した人は田無の歴史という教科書(たぶん田無市の小学生だけがもらえる教科書)に必ず、中央線の話が出てくるのを知っていると思います。
かなり衝撃的事実がかかれていると当時は思いました。
その事実とは、中央線が田無を通るラインで計画されていたということです。
地図でいえば、荻窪あたりから田無に向かって計画されていて(現在の青梅街道のラインになるのでしょうか)、田無から立川付近に向かって、抜けていく当初の計画があったそうですが、田無を通らなかった理由もその教科書に書いてあったはずです。
その理由とは、当時は蒸気機関車が走っていたため、田無周辺を汽車が走ると沿線の畑に被害が出るという理由で近隣住民が反対したと記憶しています。
田無周辺は野菜畑のほかに桑畑が多かったと聞いています。当然桑の葉は養蚕がらみで葉に被害があると、養蚕にも被害が出るからなのではないでしょうか。
ちなみに田無のお盆は8月1日です。これは、養蚕がらみの日程だと聞いたことがあります。総持寺で毎年開催される盆踊りの最終日が8月1日なのはこのためです。
投稿: うるちち | 2005年9月14日 (水曜日) 21時56分
うるちちさん、こんばんは。
どこの小学校も自分たちの街について、学習しますね。先日中央図書館で西東京市に着いての小学生向けの教科書をみつけて、パラパラと読んでみました。確か鉄道のことも書かれていたと思います。中央線(当時は甲武鉄道)が田無を通っていたら、街の様子はだいぶ違っていたことでしょうね。
当時養蚕が盛んだったそうですが、今でも残っているのでしょうか?
投稿: tanashi | 2005年9月14日 (水曜日) 23時10分